第十七 及臺子之事

一、當世及臺と云うは、香臺に似たる物なり。然らず。当流には、二本足の臺子を云う。尤も、寸法あり。臺子の茶の湯と云うは、是なり。座席の隅、表の方畳目六つ、勝手の方七つ目。後(臺子の向こうの明きのこと)の寸法は、表と同寸に置くなり。炉の時は、炉縁より八寸先に置く。両脇は、風炉の時と同寸なり。
臺子四本足は、書院に用う。二本足を及臺子と云う事。及臺門と云うの形と同じ。及臺と云う物すべて、此の形なり。子はすべて、付字なり。拂子・扇子にて考うべし。当時の千家に、臺子は最初異朝より渡り、点茶法は一子相伝にするよし、心得ず。尤も、臺子の形の棚、往古唐土より渡りたるならん。然れ、共、点茶全く倭国の式にて、紹鴎より盛んなり。数寄風雅より始むるなれば、何の密事と云う事あらん。茶杓を禅法拂子の意にて、許すにて考うべし。甚鋪者は、及臺子と云うは本式にあらず。臺子に及ぶと云う意なりと云う。猶更、案内知らずの事なり。

陸安集が著された当時、丸香臺に似たものが及臺子として扱われていた様である。
及臺子についてその謂れは諸説あり、陸安集では及臺門の形からと説いている。
また、当流の臺子の茶の湯はこの及臺子で行うとある。現在、その伝統はやや薄れている感があるが、以前は及臺子のみを所持していた教授者が多かったという。
そして、この臺子の法は古来数寄風流の道から発したもので密事ではない事を強調している。
これは流祖が宗旦から臺子の伝授を受けた当初は千家の中でも秘事ではなかった事を表していると思う。
陸安集が著された延享二年(1745)にはすでに秘伝扱いされている事を考えると歴史的な観点からはとても興味深い。
一子相伝の形は現在の近代家元制度に付与され易い(皆が理解し易い)もので表千家では真臺子が、武者小路千家では乱れがそれに該当する。
織豊時代、豊臣秀吉は利休に真臺子の法を勝手に伝授しないという誓紙を書かせ、伝授を受ける事に権威を与えた。
千家は宗旦の次の代で、江岑宗左は紀州徳川家へ、仙叟宗室は加賀前田家にそして一翁宗守は高松松平家にそれぞれ仕え、宗旦流を各地に広める事になる。
流祖も宗旦の代理として三河吉田の小笠原家に仕えたが、武家への仕官によって主家の権威というものも相まって、江戸の世に一子相伝という形に変化を遂げたのではないかと推察する。
しかし、同じ武家に仕えながらも宗旦の教えを忠実に守り、侘び茶の理念を唱え続けたのが流祖宗徧であり、その流れを汲むのが当流である。

その考えは流祖が著した茶道便蒙鈔や茶道要録にもよく顕れているが、それをより委細詳しく述べているのが陸安集である。

時習軒岡村宗恕の序文にある通り、その内容は宗徧、宗引、宗伯の談ずる事に一言も差なしと宗円が熟覧の上に認めている。

ただ陸安集を読んでいて何故これほどまで他流を末流と称したり、流儀の正当性を主張するのか正直戸惑いを感じる事がある。
その気概には頭が下がる想いであるが、少し偏った感は否めない。
しかしながら、その偏りの中にも一本筋が通っている事も読み取れる。
侘び茶を唱える流儀はいくらでもあるが、これほどまで宗旦の侘び茶を基本に据えて、それを忠実に守っている流儀はないと思う。

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