第十九 後の火直す事 便蒙一 二十七左

一、後の火直す時に、下取りを用うる事は、古しえ侘人、埋火にて直に、茶事をもうけたるに寄る。二度目に、下つかえたる時は、下を取るなり、当代は、客を呼び候時あらため灰を直すなれば、中々二三度にて下つかえ、隅仕がたき事なし。当代は、客より下御取りあれと申すなり。一切心得ず。下取る事、客へ不礼にてもあるまじき事なり。と書きたるは、此の炭は、薄茶の湯の為にするなり。前に書きたる如く、末流にては、数寄屋濃茶切りにて、薄茶はお座敷にてする。故に、此の炭を末流にて云う、立炭と心得違いなり。其の上に当代の下を取るを見れば、つかえたる炭を取るにはてあらずして、下火を残さず取るなり。しかれば、炭おこす事無用ついえなり。甚だしき人は、火あれば、細炭を御あげあれという。笑止の事なり。左程ならば、茶の湯せざるか、是もよからんか。客より、下御取りあれと申せば、客にまかせ、つかえたる下を、心得顔にて取る事、おかしき事なりと書きたるは、此の意味なり。宗旦の巻物に、まづしわくてはならぬものなり。と書かれし由、当流にては、断えず湯沸し置くなれば、たとえ所望の炭たりとも、随分火うつりよきようにすべき事なり。

当流では、底取りではなく、下取りという。以前より同じ事を繰り返すようであるが、物事の根本を侘び茶に据えるとこのような内容になるのは必然かと思う。
質素倹約、用いる道具は最小限に留めるなど、その基本に立ち返ると上記文言は当然の如くに思える。
それに反する典型的なものが現在の廻り炭であろう。夜咄などで自然に下がつかえたら下を取り、新たに炭をくべ、それを繰り返す事は至って普通の事であるが、現在の廻り炭はただ炭の置き様を変えるだけのお遊びである。
宗旦の晩年、京の町衆達は一斉に宗旦の極侘びから距離を置き始める。替わって石州や姫宗和などの茶を持て囃し、宗旦は大徳寺衆との茶の湯のみを楽しみとした。京の町衆の中には富商もいたであろう事を考えると宗旦の冷え枯れた茶の湯に愛想がついたのは想像に難しくない。一言でいえば雅もない、つまらないものと映ったのであろう。
そんな晩年の宗旦の茶の湯に惹かれ、一心腐乱に学んだ若人宗徧は町衆からみれば、奇特な弟子に思われたのかもしれない。しかし、宗旦は唯一、自らの茶の湯を受け継ぐ者として宗徧に己の全てを授け、利休の名号不審庵と共に自らの今日庵の号をも譲った。
利休は自らの死後、自らが大成した茶の湯は衰退していくという様な言葉を残したとされるが、その現状の中で唯一血の繋がりのない孫の宗旦が一人その光明を保ち、それを宗徧が受け継いだというのが当流の利休正伝を唱える所以である。
今も同じである。大衆受けする茶の湯は雅で楽しいもの、その中に上辺だけの数寄があればこの上ない趣味となろう。正直言えば、そんな流儀はいくらでもある。
流祖が残そうとした茶の湯、それを色濃く残す陸安集を読んでいると守るべきものがまだまだ沢山ある事に気付く。「守破離」という言葉を聞くが、私がいま述べているのは「守」にすら至っていない。

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