一、指の力は柄杓のおもみに応じたるがよし。諸道具の持ち様、是にて了簡あるべし。此の心得、当流点茶の眼とするなり。たとえば、柄杓を持つ力にて茶杓を持ちたる時は、茶杓に勝ち過ぐる。茶入を持つ力にて水壺は持ちがたし。其の器に応じざる時は、一遍の点茶、すらすらと行きがたし。尤も此の心得、未熟にては成りがたし。茶事の稽古・伝授も此の心得なりと宗徧より宗伯へ伝えなり。初学より真台子教えたりとも上手になりがたし。手前、手練の上にての事なり。盆点とて秘密にもあらず。其の成るべき手前に至りて免す事なり。其の器量より其の荷勝る時は弁じ難し。儒は儒の行い、医は医の術役、人は夫々の勤功を積みてする事なり。物事一人にて初めより行うものにあらず。此の心得にて、茶人、平日の心持ちあるべき事なり。
(他、抜粋)惣じて手前は形すなおに、手首ゆがまず、すらすらとする事、肝要なり。宗旦の云う、肘をはれば、却りて肩いかり、背中ちぢむ。膝先へ手を置き、肘もおだやかに丸くする時は、惣身にゆうありと云われし、則ち「要録」の像の形是なり。気は是業に顕るる物なり。人心、人面の如し、とて、むつかしき面の人は、心もひがみ、鼻の下の長き者は心もたわけなり。依りて手前すなおに、物好も略様になきを当流の眼目とするなり。猶、委細は宗旦より周覚へ伝授の巻物に出ずるよし。
最初の文章は陸安集の岡村宗恕の序文にもある文言である。点前においては道具それぞれの重さに応じた力を用いる事が肝要で、たとえ初心者に真台子を伝授したからといってすぐに点前が上達する訳ではなく、人それぞれの力量を見定めて順次茶法を伝授し、最終的にはその人の器量をも見極めるという。
茶の湯とは単に客をもてなし、道具を鑑賞するものではない。
名物を一つも持たない侘び人の茶を面白く思った利休。乞食宗旦の異名が付くほどに自ら清貧の侘び茶に徹した元伯。その元伯宗旦に師事して武士に仕えながらも侘び茶を追い求め続けた宗徧。
共通して侘び人に求めたものは道具ではなく、その心であった事に気付く。そしてその心は器量にも通じ、岡村宗伯のような富商をも魅了した宗徧茶の湯となり、その精神は上記文言に顕されている。
